Catallaxy Blog

究極のUXとしての「交換」

2018/12/16
はじめまして。
Catallaxy編集部です。

弊社は、Catallaxy(カタラクシー)という名前を持っています。
しかしながら、これがなかなかやっかいでして。
電話口でも、名刺交換でも、なかなか名前がうまく伝わらないのです。
言いやすくもなく、聞きやすくもない。
キャッチ―でも全くない。
全く困った名前です。

でも、弊社はこの名前を変更するつもりはありません。
なぜなら、このCatallaxyという名前が、弊社の哲学を完全に表現しているのですから。
この点について、簡単に今回のブログで皆さまにお伝えしようと思います。

自由は人間にとって最も根源的な価値である


Catallaxyとは、20世紀を代表する自由主義の思想家で、ノーベル経済学賞の受賞者でもあるフリードリヒ・ハイエクの造語です。
ハイエクに関する詳しい内容は、別のブログで展開します。
まず、ここでみなさんに理解しておいていただきたいのは、ハイエクは自由主義者であるということです。
弊社代表は、ハイエクの自由主義的な思想に共感し、Catallaxyという概念を会社名としたのです。
代表が共感を覚えたのは、自由が人間にとって最も根源的な価値である と考えているからです。
どのような意味で共感を覚えたのか。
交換 という事柄を一つのてがかりとして展開してみます。

交換は驚くべきものである


さて、交換とはどのような事柄でしょうか。
そのことを考えるために、まず以下の動画を視聴してください。



この動画から理解されるように、 交換 とは驚くべきものです。
ここで驚きとは、お互いに求めあう者が、交換されるものを通して出会い、交換することによって喜びを得あうものとして出会うことに対して述べています。

それは、まさに 恋愛 にも似た「何か」です。
全く見知らぬ他人がたまたま出会い、恋愛を通して喜びを分かち合う。
その喜びは、決して一人だけでは得られない「何か」であり、であるからこそ生まれた「何か」です。

恋愛がそうであるように、交換もまた決して当たり前の事柄ではありません
恋愛が、人間の生の中でも一つの特異な体験であるように。
それが特異な体験であるといえるのは、自己を超えた「何か」(他者)と出会うからです。
他者とは、決して自己のみでは得られないような「何か」。

交換もまた同じです
交換は、決して自分一人で行うことができない「何か」です。
それゆえ、必ず自己を超えた「何か」と出会うという体験が、交換という事柄には原理的に織り込まれています。
だからこそ、交換には 価値がある のです。
その価値は、先に見た動画のような表現形態で我々は確かめることができます。
また、今まさに私がここで書いているように、その素晴らしさを言語という表現形態で語ることもできます。
それは、かなり拙い文章によって表現されていますが。
この点、以下の書籍は巧い文章によって表現されていますね。

参考書籍

その素晴らしさを、動画であれ文章であれ的確に説明するのは、決して簡単な作業ではありません。

究極のUXとしての「交換」


では、その素晴らしさをどのようにして表現するのがいいのでしょうか。
あるいは、どのようにして表現するべきではないのでしょうか。

我々は、日々の暮らしの中で二重の一般性を有する 貨幣 を使用します。
ここで、貨幣に関する種々の議論に踏み込むことはしません。
むしろ、貨幣を使用する際に発話する一つの言葉に着目してみたいです。

我々日本人は、商品に対する対価として貨幣を使用する際に、様々な言葉を発話します。
例えば、「ほんのお気持ちですが」と。

交換は、そのような発話を伴って行われることが多いですね。
それは、交換に何らかの 価値 があることを意識的であれ、無意識的であれ気づいているからではないでしょうか。
しかし、我々が「ほんのお気持ちですが」と発話するとき、そこに本当に気持ちがのっているでしょうか。
その発話は形骸化してはいないでしょうか。
なぜ、我々は「ほんのお気持ちですが」と発話するのでしょうか。
我々はそのことをどれだけ意識しているのでしょうか。

翻って鑑みるに、 交換 という事柄が有しているプリミティブな(原始的な)価値、体験というものをどれだけ意識して、日々の生活を営んでいるのでしょうか。

聖書の有名な「楽園追放」のシーンに、以下のような文章があるります。

「お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して 土は茨とあざみを生えいでさせる 野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。」(創世記 3:17-19『新共同訳』)

これを真に受けるのであれば、我々は労働(働くこと)という刑に処されていますね。
しかしながら、その刑は 交換 という事柄によって、それが束の間であれ解放されます。
喜びをもって。
我々は、今一度 交換 という事柄が持つプリミティブな価値というものを再認識するべきではないでしょうか。
なぜなら、交換 とは喜びをもって迎えらるべき「何か」であり、それは 究極のUX(ユーザーエクスペリエンス)なのだから
だからこそ、我々は一日の大半を働くことに費やすだけの価値があるのだから。

そして、そのような 交換自由 によって、実現されます。
だからこそ、自由が人間にとって最も根源的な価値である のです。

私は呼吸をします。
喜びをもって。
交換 に似たエコノミーの駆動がそこにあることを感じながら。